?24時間働けますか?
住環境デザイン論という授業をもった最初の年、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を読んで感想を書くというレポート課題を出した。この課題、実は研究室の先輩であるTさんが照明の授業で出しているという課題のパクリ。ごっつあんです。
今回、この課題に答えてみようと思うのです。自分の出した課題に自分でレポートを出すという試み。D(不可)を付けられたら大変です。っと、まあ肩肘張らずにやってみましょう。
「陰影礼賛(中公文庫)」は昭和の初めに書かれた名エッセイです。照明が発達して身の回りがどんどん明るくなり、その中で日本人が培ってきた感性にそぐわない環境になってきていることを憂いている。
?そんな昔から日本は明るかったのか。
乾先生の書いた「照明と視環境(理工図書)」という本に、1900年から1970年代までの事務室の推奨照度のグラフが載っています(p47)。このグラフを見てまず気づくのは、年を追うごとに推奨照度が高くなっていくということです。
陰影礼賛が書かれた昭和8年は電球はあったが蛍光灯は発明される直前。推奨照度はアメリカが200lx(ルクス)程度であり、日本とイギリスは80lx ほど。これは相当暗いですよね。日本はそんなに明るくなかったのだと思います。昭和50年頃には800lx?1000lxと、ずいぶん明るくなりますから。ちなみに、今、夜7時過ぎ。私が文章を書いている自席の机上面照度は270lx。ちょっと暗めの印象です。
昨年、照明を研究している後輩の発表を建築学会で聞いたのですが、照明環境の好ましさは明るさの分布とは関係なく、明るさそのもの(照度)とばっちり相関という結果でした。谷崎の時代と現代ではレベルが違うけれども、放っておけば、人々は明るさを求め続けるということになるのだと思います。
さて、印象評価実験をやってみると、まず間違いなく、明るい方が暗い方より好まれるという結果が出ます。別に照明の印象だけではなくて、色の印象でも、街並みの印象でも、人の印象でもそうです。なぜ人は明るさを好むのでしょう。
それは不安感で説明されることが多いようです。田舎育ちの人ならわかると思うのですが、闇の恐怖というのは、それはそれは大変なものです。特に一人であれば、なおさら。ちょっとした物音にもびくついてしまう。
人間というのは元来弱い生き物で、道具を使ったり、集団で生活したり、知恵を使うことでそれを補ってきた。明るいというのは、周りの状況をよく知ることができますから、対処がしやすい。危ない場所には近づかないなんていうことも、明るいからこそ確実になるわけです。それに対して、闇というのは人間の弱さを際だたせる。だから人は明るさの方を好むと。
これは感覚としては非常に納得できる。
このように明るさは好まれている。それなのに、「暗さ」を云々することには意味があるのでしょうか。
こう問えば「省エネルギー」が真っ先に出てきそうです。地球環境問題が顕在化してきている今、これは大事な問題です。しかし、谷崎はこの観点から暗さを考えているわけではありません。ここではちょっと脇へ置いておきましょう。
暗さを考えるとき、明るさとコントラストを織りなす「陰」の存在を考えるというのがあります。
色を使う建築家というのは、あまりいません。建築というのは元来、素材の色に縛られていましたから、そんなに色遣いを楽しむことはできなかった。確かにそうなのですが、塗料が発達して様々な色を使えるようになっても、テーマパークとかショッピングセンターなどのごく一部に色が目立つ建築があるだけです。(これは、色を使いこなすことが決定的に難しいからだと思います。看板とか建築とか、色が目立つものには醜悪なものが多いでしょう?)
それに対して、光と陰を意識した建築は数多い。教会建築などは大概そうだし、コルビュジェなども相当考えていると思います。茶室とかもそうかな。光は必要なものだから取り入れなくてはならない。何より、光がなければ建築も見えない訳で。しかも、天気によって時間によって変化する光はドラマティックな演出家でもあります。
光と陰を演出するには、テクスチャと色が重要だと思います。ざらざらして、白っぽくないといけない。のっぺりした肌は無機質だし、色が付いていると光と陰の効果が弱まってしまう。庇の下をすり抜け、障子で透過された光は弱々しい。その風情を楽しむ日本の建築では、土壁にする必要があったのだ。そんなことを谷崎は書いています。それは頷ける。光を楽しむために必要な心配りだと。
どうも、明るいだけだと、憂いや情感といったものが欠けるような気がします。
K先生に紹介されて出かけた大阪市立東洋陶磁美術館には国宝の油滴天目茶碗があります。実は、1年ほど前に東武美術館で開催された展覧会でお目にかかって感動した一品だったのですが、今回はいただけなかった。明るすぎるのです。
わざわざ自然採光にしているのに、それが徒になって陰影が乏しい。あの黒い茶碗は暗くないと良くない。そう思ったのでした。ゆらゆら揺れる蝋燭の光で見たらいいだろうなあ。
先ほど憂いとか情感と書いたけれど、色気とか侘び寂とか、風流とか、こういうものは微かな心の動きなのであって、刺激が強すぎては感じられない。フェヒナーの法則からもそう言えるでしょう。
明るい美しさは、大柄なのです。誰にでもわかる、しかしややもすると単調になりがちな。
これまで書いてきたように、暗さの文化というのは大人の文化なのです。闇と紙一重の世界を楽しむことができるのは、闇と対処できる自立した心がないといけません。微かな違いを読みとる心の機微を持ち合わせていなければなりません。つまりは、余裕がなければなりません。
住都公団からの依頼で、居間の照明環境の印象評価実験をやったことがあります。様々な生活行為に向いているか向いていないかを判断してもらったのですが、本を読むとか文章を書くとか、テレビを見るときなどは明るい方がいいという結果が出ました。それに対し、お酒を飲む、音楽を聴くなどというときには照明を暗くした方が良さそうでした。ついでに、白熱電球の温かい光の方がいい。
どうでしょう。余裕がないと暗さが楽しめないような気がしませんか。
暗さを楽しむためには、生活を変える必要があるのです。情報をたくさん取り入れて、その刺激を楽しむやり方では暗さの魅力はわかりません。情報量を落として、余韻を楽しむ。そんな生活を送る人にこそ、暗さはやさしく語りかけてくれるのではないでしょうか。
残業時間を数えて褒め称えているうちは、暗さの復権はあり得ないと思うのです。
fin.
2001.6.16
油滴天目茶碗(油適天目とキーワードに入れて検索してください)
住都公団からの委託研究(本に紹介されています)
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