環境心理学の未来に向けて

環境心理学の未来に向けて  



 私は環境心理学の未来は、現状のまま手をこまねいているのであれば明るくないと感じている。多くの心理学科で環境心理学の授業が開講されるようになってきたし、国内でも国外でも学会に行けば仲間と言える人々に必ず会うにも関わらず、である。少し、そのあたりについて書いてみようと思う。読んでくれた人に何らかの痕跡が残ることを願いつつ。

1.環境心理学の呪縛

 環境心理学は社会心理学の一部だと言われることがある。これは環境心理学の萌芽といわれる研究が社会心理的な視点から為されているためだと思う。たとえば、R.ソマーのパーソナルスペースの研究は、物理的?空間的要因が人と人の関係に影響を及ぼすことを示しているが、それは非常に社会心理学的である。環境の影響を主張したC.レヴィンは正統派の社会心理学者だし、犯罪と物理的環境の影響を調べ「Defensible space」を著したO.ニューマンもまた、人の目を防犯に活かすための物理的な特徴を明らかにしたのであって、つまりは人が人に及ぼす影響を媒介する変数として物理的な特徴に着目したのである。あくまでも主は社会的環境であって、物理的?空間的要因は従なのである。
 さて、このような研究は実験室で実験者と被験者に分かれて為されたものではない。ニューマンが実施した調査は実際に犯罪が起きる団地を対象としたものだし、ソマーの実験には実は実験室的なものもあるが、病院の待ちあいスペースや図書館を利用する学生を対象にしたものはやはり「現場」を対象にしたものだと言えるだろう。このような特徴は、実験室実験で培われた心理学的知見では我々の日常の行動をほとんど説明することができないことに気づき愕然としたという、生態学的心理学の祖R.バーカーの登場により補強されたように思う。つまり、実験室という特殊環境で明らかにされた事実はそのまま実世界に通用するとは限らないので、実際の環境で調査?研究すべきだという主張となるのである。
 それでは実験室と実際の環境はどこに違いがあるのだろうか。それは実験計画を立て、被験者としての立場を要求する研究者の存在の有無である。研究者が何かの課題を遂行することを依頼する。それはすでに現場ではない。現場では研究者ではなく、上司や仲間や家族や恋人やただの通りすがりや、そういう人達と相互作用している。そこでは「これこれをしてください。」という命令に従うばかりでなく、こちらから提案することもできるし、気に入らなければ無視することもできるのであり、したがって影響を受けるだけでなく及ぼすこともできる。そういった事柄をきちんと考慮することが現場の環境を理解するには必要だということになる。
 このようにして、現場での人と環境の係わり合い、もしくは人と人との関係に及ぼす環境の影響を明らかにしていけば、自ずと芽生えるのが、その知見を環境改善に役立てたいという意識である。現場で得られた知識は現場に活かせるはずであり、活かすべきであろう。特に建築系の環境心理学者が期待するのは、この部分である。

 環境心理学を心理学の他の領域から区別し、特徴付けるのはこの3点に尽きると考える。つまり、「実際の環境で」「相互作用を前提としつつ」「実際に役立つ知見を得たい」のである。
 何ら問題はない。正当な立場である。しかし、それが足枷になっているようにも思われる。

2.それでは一つずつ見ていきましょう

 生態学的妥当性という言葉がある。これは、環境心理学の誕生より後にできた言葉だが、すでに二十歳は越えて心理学界にりっぱに定着した概念だと思う。その意味は「実際の環境を模して実験をしなさい。そうすれば、実際を説明できる可能性が高まりますよ。」ということになるだろう。人々の生態をよく観察し、その立場から妥当な実験条件であるかどうか考えましょうという主張は、絶対に実際の環境でなければならないとまで肩肘張らないが、実際を説明する知見を得ようとする立場に心理学がシフトしてきたことを示す。そうなると、過去には環境心理学の特徴であったものが、特徴ではなくなってしまう。私は、生態学的妥当性の概念はすでにコモンセンスになったと思う。
 では相互作用の方はどうであろうか。実は、この概念をことさら強調しないほうがいいのではないかと私は考えている。それはどういうことかと言うと...。

相互作用というのは、刺激‐反応モデルに対するアンチテーゼであろう。aという時間に環境と人の状態を計測する。ある時間が経過した後、もう一度環境と人の状態を計測すると、環境も人も状態が変化していた。そのとき、そこには相互作用が存在した可能性がある。環境刺激が人に影響を及ぼすだけでなく、人が環境に影響を及ぼす。その結果、人も環境も変化したというモデルである。
 しかしこれは、変化の記述に過ぎない。科学が持っている、なぜそうなるのかが知りたいという欲求を持つ者には不満が残るであろう。そしてその欲求を満たす手段は構築されていない。いや、構築できない。科学が取ってきた手段は、ある変数Aに着目して、それだけを変化させた場合に別の変数Bが変化すれば、それはAがBに影響を及ぼしたと考えるモデルに基づくものであり、状況の記述を行えば因果関係が説明できるという巧妙なものである。時を隔てた観察は、そういった仕掛けが足りないのである。実は、「Environmental Psychology」のテキストにも、相互作用を考えることが大事だがそのための研究手法は確立されていない、と書いてある。当たり前である。2変数があって2つの状態があれば、解を特定できるわけがない。したがって、上述した科学的手法と同等の厳密性を相互作用モデルに基づいた方法論に求めるのは無理がある。
それだから諦めたのか、状態記述だけの表面的な研究も多いように思う。環境心理学のテキストで「生態系について学習させたら、学習の効果があった。それが確認された。」というような記述を読むと暗い気持ちになるのである。いや、我々が欲しいのは「どう学習させたら効果的なのか」を考えるためのヒントなのではなかろうか。まっとうな学習教材を用意して、まっとうな先生が教えれば、まったく効果がないことはないだろう。ある特定の教育方法が、何もやらないよりましだということを調べて、どれだけの意味があるのか、と。
 このように考えてきたとき、大別すれば2つのやり方があると思う。ひとつは相互作用モデルを時系列的なモデルに置き換えるというものであり、もうひとつは解釈に役立つ状態記述を目指すというものである。
時系列的なデータ収集では、時間間隔を短くして何度もデータを取る。そのことにより、変化をより厳密に記述できるようになる。そうなると、変化の過程の詳細が見えてくるから、解釈がしやすくなる。そのときには、相互作用ではなく、作用が交代しつつ積み重なる過程として記述できることも多いのではないだろうか。環境を人が解釈して行動を起こし、それによって環境が変化したので人の認識も変化したというようなスパイラル的な流れは、交代する片側作用の連続((環境→人)→(人→環境)→(環境→人)....)として記述可能なように思う。
 実は、このようなデータ収集では適当な時間間隔を見つけることが課題となる。老人ホーム全体の雰囲気は徐々に変わるので1年ぐらい経たないと変化が見えないが、AさんとBさんのつながりは、ある出来事をきっかけにして劇的に変化したから、その時点を挟んだ観察をすれば明確に捉えることができるというようなことである。因果関係的な情報を得ようとすれば、変化が見られた時期の人や環境を記述したデータに着目することになる。
 解釈に役立つもう一つの記述の例として、分類が挙げられる。たぶん、ある程度スタティックな状態として記述されることが多くなると思うが、人と環境の2変数の状態変化をグルーピングするのである。混雑した車内では、隙間を求めて車両中ほどへ移動する人、扉近くに居場所を見つける人、広告を見てごまかす人、音楽を聴き始める人などさまざまな人がいる、とグルーピングするのである。その結果、車内の環境も変化するし、人の周囲の状況も変化するので、それを合わせて記述する。大阪大学の鈴木さんが提唱した「居方」などは、環境心理学的に分類=グルーピングをした好例であろう。これでも、十分ヒントになるし、役に立つが、無理やり相互作用を記述しているわけではない。
 さて、このような手法は不完全であった。因果関係は推測に過ぎない。そこで、多様な手法を用いてデータを集め、その妥当性を高めようという発想が出てくる。multi-methodが推奨されるゆえんである。
 実際にはなかなか難しい部分もあると思うが、最近はやりのナラティブ(narrative:物語風の)データ収集、インタビューやアンケート、観察などと変数記述のようなデータを組み合わせることは有効であろう。単に解釈者が経験を積んでいるだけでも、書物やインターネットや先行研究からの情報を収集するだけでも妥当性は高まる。まあ、当たり前のことを当たり前にやるということになるか。
 そういう意味では、現場だけでなく実験室的な実験にも意味がある。ある特定の状況下であるにしても、解釈のヒントを得られるからである。それを生態学的に解釈して、適用範囲を過たないよう気遣えばいいのである。実験室実験を否定する必要はない。
 私は、ホリスティック(全体的)な研究とパーシャル(積み上げ式の、一部を扱った)な研究の両方を行うことを心がけている。変数を制御したような実験室的研究で解釈のヒントを得つつ、実際的な環境を用いた研究で主要な変数にあたりをつけたり、パーシャルな研究の妥当性を検討したりするということである。
 と言っても、評価実験がメインだから、本当に実際の環境を使用することは稀なのだが。

...と、これで3つのうち2つを見てきたことになる。

3.環境心理学から環境の心理学へ

 「専門は?」と問われ、「環境心理学です。」と答えたとき、「壁の色が変わると人の心理にどんな影響があるかというようなことをやるのですか。」と言われることは多い。まっとうな環境心理学者には不満だろうが、世の人々が環境心理学に期待しているのはそういうことである。今、「不満だろうが」と書いたのは、暗黙のうちに刺激‐反応系のモデルが設定されていることに不満を持つだろうというほどの意味である。しかしそれでは、壁の色と人の心理について、別のやり方できちんと説明しているかというと、それほどでもない。つまり、価値ある知識を提供できていないことになる。ここはひとつ、モデルにこだわるのではなく、知識を提供することを心がけてはどうか。そう思うのである。
 先に環境心理学の特徴として3つ挙げたが、「実際の環境で」と「相互作用を前提としつつ」は時と場合によっては諦めてはどうかというのが私の提案である。そうすると、「実際に役立つ知見を得たい」だけが残る。ここに存在意義を集中してはどうかと思うのである。
 ある意味、問題解決型である。以前、企業人の研究者に「経路探索でもいいが、経路探索なら何でもわかる研究者じゃないと意味がない。」と言われたことがある。人々が専門家に期待するのは、あの人に尋ねれば回答が得られるということで、そうでなければお金を儲けることはできない=存在価値はないというほどの意味であろう。研究者には厳しい指摘であるが、真実を言い当ててもいる。そういった存在になるべく研究テーマを定め、追求していくことを環境心理学の特徴としてはどうかと思うのである。
 そうすると、研究手法は何でもいいのか、モデルはどうかなどと問われそうであるが、それは何でもいいと言いたい。兎に角、問題解決を目指していれば環境心理学だと名乗ってしまうのである。
 「基礎研究はどうなる?」、「生態学的視点を持った心理学との違いはどうなる?」
 基礎研究もオーケーである。それが問題解決に向かうならば。生態学的視点を持った心理学は仲間である。大事にしよう。その研究者が環境心理学者と名乗ってくれれば大歓迎である。そんなことを言うと、心理学すべてが環境心理学にならないかと言われそうである。概念的にはそれに近いが一般の心理学者はそれを好まないだろう。知覚、認知、学習というような領域が並んでいる状態は現実に横たわる問題解決を意識したものではない。

4.問題意識

 さて、それではどんな問題を解決したらいいか。私なりの回答を2つ用意してみた。
 ひとつめは、自著「環境心理学 ‐環境デザインへのパースペクティブ‐」の章構成に現れている。環境の知覚?認知と人の行動に焦点を当てたもの、いくつかの評価の側面に焦点を当てたもの、環境における人の存在の心理的な意味、社会的マイノリティに関する情報提供、環境構築プロセスのソフィストケーションである。
 これらは、これまで環境心理学の分野で扱われてきたものが主である。しかし、本を贈呈したある先生から後半が弱いねと言われたことからわかるように、まだ十分に開拓されていない領域が残されているとも言える。
 もうひとつには、手法の精度が関わってくる。21世紀が脳の世紀と言われるように、近年、心理学は脳科学との結びつきを強めている。そこではPETやなどの新しい手法が現れると、新しいデータが得られ、そこから新しい事柄がわかってくることが期待されているのである。一方、既存の手法でわかることはわかってしまった可能性、もしくは問題解決に必要な事柄はすでに一般の人が知っているレベルの事柄が大半を占めているという可能性も大きい。環境心理学が一番勢いがあったのは1960年代の創成期であるように思う。日常の環境に心理学的な視点を持ち込むことでわかることがあったのだ。それが一段落すると、だんだん普通のやり方でわかることは減ってくる。それが停滞につながる。しかし、画像診断などの新しい手法は非環境心理学的な手法である。思いっきり実験心理学のパラダイムに載っているから使えない。それが停滞に繋がっていると思われる。
 環境心理学と直接的に関連すると言えるかどうかわからないが、調査手法を改善していこうという動きはある。建築系の人に多いのだが、マーケティング的な手法を援用するといったことだ。ただしこれはアンケート調査の解析などに使用されることになるであろう、どちらかと言えば社会調査的な観点での手法の発展である。
 いっそ、既存の手法でわかる未開拓の分野があれば、それをやってもいいのではないか。私自身は美などの高次の評価を扱うことで、既存の手法でもわかることがあるのではないかと考えている。脳の中でどのような処理が行われているのかを生理的な指標で明らかにしていくというよりも、刺激‐反応的なSD法の世界で人間の下す評価の特徴を明らかにし、最新の技術を用いた研究を行う人にフレームワークを提供できないかと、大袈裟に言えばそう考えている。ということで、守旧派である私は自分の興味とも重なるここに取り組んでいる。環境心理学的な手法は用いていないけれども...。
 ここで紹介した2つの問題意識は、社会的な要請に基づいたものではない。私の問題意識である。もっと問題意識を持って、手法などは後から付いてくるというような研究が増えればいいのだが。

5.発展に向けて

 結局は何かのヒントになる知見を生み出すことが生き残りにつながる。生み出せずに概念だけ並べても意味はない。老兵は消え去るのみ、である。
 環境心理学の授業を受講している学生に尋ねると、大変素朴な疑問を提出してくる。よく考えていない場合ほど回答は難しく、たとえば「家は性格に影響を与えるかどうか知りたい。」というような問いには卒倒しそうになる。しかし、それは素朴なニーズなのであって、研究プロセスとしては困難が待ち受けているとしても、環境心理学は、そういうことにひとまずの答えを用意していく必要があると思うのである。そして、それを真実に近づけていく努力をすべきだと思う。そう考えるならば、無限に近い領域が未開拓のまま横たわっていると言えるかもしれない。
























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